中卒ニートだった俺が30歳になる前に年商1億円を達成した。

今でも思い出すのは、廃棄されているゴミ袋を漁って、今日一日を生きる為に必死だったこと。

今でも思い出すのは、家賃催促の電話とインターホンが鳴り止まないこと。

今でも思い出すのは、電気代が払えなくてロウソクの明かりを頼りに生活してたこと。

今でも思い出すのは、社会は私を見捨ててるんだ。なんで私だけがこんな目に合わなきゃいけないんだ、みんな私の敵なんだ、という感情。

きっかけ

明るくて、勤勉、そしてずっと世の中に疑問を抱き続ける学生だったと記憶している。

校則に「長髪は禁止、流行を追った髪型は禁止。学業に支障がでるためで、学生は本業の勉学に励むべし。」

なんて書かれていたら、寝る間を惜しんで勉強に取り組んだ。 上位に食い込むがことができると、金髪にしたり、ピアスをあけてみたりしたものだ。 中学生時代の話だが、当時はどうしても大人が作った校則を受け入れることができなくて、反抗がしたかったわけではないが、疑問を抱き続けてそんなことばかり繰り返していたと思う。

そんなことをしている私がどうなったか想像するのは難しいことではない。 高校もすぐに退学し、家出。 日雇い労働と、誰にでもできるアルバイトしかすることがない人生が待っていた。

20にもなると、さすがに自分が置かれている状況は理解できてきた。 だが現状を受け入れることなんてできなくて、せめて格好いい仕事をしたいと思い、アパレルの店員やバーテンダーなどを経験してきた。 中途半端な気持ちで働くから当然、誰も評価してくれない。 こんなところにいるから私は誰にも評価されないんだ。

そして、上京。 もちろん、上京したからといって私自身が変わることはなかった。 より厳しい社会が、私を負のスパイラルに陥れる。 さらに、似たような境遇の人たちとの傷の舐め合いが続き、アルバイトも辞め、とうとうニートになった。

冒頭の文章はその当時、毎日考えていたことだ。 それ以外のことを考えていた記憶がない。

そんな日々に、ふと何のための人生だ、と夜の渋谷を1人徘徊しながら深く自問自答することになった。 どうせ落ちるところまで落ちたのだから何も怖くない、という無敵感がやってきた。

ネットカフェに行って、調べたのはパソコンを使ってできるお金稼ぎはなんだろう?と必死に調べた。 どうやら HTML というもので WEBサイトができているらしい。PHP というプログラミングで作業を効率化できるらしい。 メモ帳と Internet Explorer を使って「Hello, world!」を表示させた時の全能感は凄かった。 単純な私はそこから毎日、寝るのも、風呂に入るのも、ご飯に入るのももったいなとすら思えるくらいパソコンに向き合うことができた。

WEBデザイナーを名乗るようになり、初めて友だちのバンドのホームページを5万円で作る日まで、そう時間がかかることはなかった。 運がいいことに、引越した先でネット回線を引きに来た業者がWEBデザインを出来る人を探していた。 毎日色々な家やオフィスにネット回線を引きに行くものだから、ついでにホームページも作って欲しい、という要望がかなりあるとのことだ。 正直、そこまで優れているWEBデザイナーではなかっただろう。 だが、ありがたいことに熱意を買ってくれて色々な仕事を経験させていただくことになった。

そこからは、効率化のためにプログラムの勉強、Linuxサーバの勉強など、毎日が勉強と仕事の日々だった。 そんな私を見て、仕事を手伝いたいと言ってきた人がいた。 彼もまた、人生を捧げてるといっても過言ではない仕事と価値を私に与えてくれた。

そして、想像もしていなかったことだが、売上と利益、税金を考えると、法人化する段階まできていたのだった。 「起業する」なんて私の人生にあるとは思ってもいなかったし、自分とは別の世界の住人なのでは?とすら思っていた。 心の準備も知識も何もないが、そういう状況になったことを今でも覚えている。

起業後は特に大きなトラブルもなく、従業員や私が食べる分には何も困らない生活をしていた。

しかし、とある日に従業員が1人辞めたのだ。 「以前のようなギラギラさがなくなった。安定した普通の会社には魅力を感じない。」と言われたのだった。

試行錯誤した結果、今まで学んできた技術を使ってアフィリエイトサイトの運営をスタートするまでには時間はそうかからなかった。 イケてるWEBサービスで未来のザッカーバーグ!なんてことは到底考えきれなかったので、今出来る範囲でリスクを背負わずにやれることだったからである。 そんな性格だから、きっとその従業員も辞めたのだろうけど私にとっては大きな大きな、未知への挑戦だった。

WEB制作会社を経営するに至ったこと、アフィリエイトサイトの運営を始めたきっかけは以上である。

どうやって年商1億円を達成したのか

この記事を書くにあたって、ネットで「年商1億円 稼ぎ方」なんて検索すると出てくるのは、情報商材系のサイトやライフハック記事ばかりでてくる。 どれもこれも現実味がなく、私の血となり肉となる情報はなかった。

では具体的に、お金を稼ぐために自問自答し続け、若輩者なりの答えを挙げてみる。

  • 本質とは何か?
  • 覚悟とは何か?
  • 敬意とは何か?

それではそれぞれを紐解いていく。

本質とは何か?

人は、誰かに明確な意見を求めている。

ひとつのニュース、事象に対して、多角的な視点を持つことを心がけた。 その事象に対して、私は明確な自分の意見を持つように心がけていた。 「まぁそんな意見もあるよね」というリベラル気取りな意見を普段から言っていると、敵は作らないが、心の底から共感してくれる人はいないだろう。 明確な意思表示と、それ以外の多角的な視線を持つことで本質とは何か?と日々自問自答をしつづけることによって、アフィリエイトサイトの質が売上の数字として現れてきたのだった。

覚悟とは何か?

ダイヤモンドは砕けない

そう、ダイヤモンドは砕けない。 もちろん、それだけに価値があるわけではないだろう。 だが、覚悟とはそういうものだと思っている。 一度達成すると決めたことに関しては、どんな手段を使ってでも達成する覚悟が必要だった。 普段あなたがしている仕事は本当に最善の方法なのか? 自分の限界を超えなくては行けない時にこそ、新しいアイデアが生まれるものだ。

敬意とは何か?

「ありがとうございました。」

これで終わってはダメだ。私は常々公言していることをひとつ。

人を動かして初めてお金が発生する。

どんな商売でもそうだろうと思う。 どんなに良い物を作っても、どんなに素晴らしい企画でも、人が動かないことには価値を出せないものである。 アフィリエイトサイトでもそうだ。わざわざ検索ワードをブラウザに打ち込んで、サイトに訪問していただき、商品を買っていただくのだ。 人が動いているのである。 敬意とは、簡単なことなようでとても奥が深く、あなたの仕事にも本当はもう一歩先の敬意の表し方があるのでは?

年商1億円を達成した後にしたこと

夢がない話をすると、生活の本質が激変することはなかった。 外見が変わっただけで、やっていることは何も変わらないのだと私は感じた。 渋谷の路地裏で、缶ビール片手に地べたに座り込んで夢を語りあってたことが、六本木、西麻布の高級ディナーを個室で会食することになっただけである。

誰もが羨む高級車も買い、高級時計も買った。しかし、本質的なものは何も変わらない、ただの移動手段と、時間を確認するツールであった。 もちろん、それがきっかけで知人から仕事の声をかけて頂く機会も圧倒的に増えたが、そんな私を見て、惹かれた人が頼んでくる仕事は、なんせ頓挫することが多かったりするものだった。

現実的な話をもっとすると、135円の特売牛乳を狙って買っていたのが、コンビニで200円の牛乳を買うようになったり、ヨード卵を買うようになったり、カレーにちょっとだけいい牛肉を使うようになった。 その程度である。

しかし、大きな違いがある。 今までは我慢してきて、選択肢がそれしかなかったことから、自分で選択できるようになったことである。 これは意思決定する機会がより多くなり、すべての事象に対して深い考察が加味されていくのがどんどん体感できたのだ。

牛乳や卵といった日常的には深く考えていなかったことが、自分の意思のもと決定して買うものに対してはどんどん知識も増えていったのである。 結局なんでもそうやってアフィリエイトサイトに結びつけるコンテンツになりうることに気づけたのは我ながら、見え方ひとつで色々なことが変わるものだと感心するに至った。

私の意味はなんだろうか?

私は何のために、そうまでしてお金を稼ぐことに固執して20代の大半を仕事に注ぎ込んだのか。 劇的に人生が変わることはとてもないのだが、やはり自分の意思決定のもと時間とお金を選択できる人生はとても素晴らしい物だと感じている。

私が私である意味は何なのだろうかと自問自答をし続けていた結果、少しでも多くの人に努力することや、どんな状況からでも這い上がれることはできるよ。と、私自身も体現して、伝え、喜びを共感し分かち合えることに、いまは充実を感じている。 この先はメルマガ登録してくださいと言いたいところだが、それは与沢翼氏に任せよう。

私にしかできないことはなんだろう? 私だから伝えられることはあるのではないか?このブログでアウトプットすることで誰かの意見や批判が貰えたらそれが私の糧になり、道標になるだろう。 いま一度、インターネットの力に驚かされたいと、私は心の底から願っている。